ー劇団を失い、こんなことを考えていたー

舘そらみと海老根理の3年間は、こんな風だった。

●舘そらみの叫び●

2014年、怒涛の公演の中でどんどんわけが分からなくなっていく。休止半年前、作品が賞をもらった授賞式で、「なぜ今中東では戦争が起きているのに、私たちはここで演劇をやっているのでしょうか」などどボヤキ、場をざわつかせる。もう、兎にも角にも思考ができないほどに心身ともに疲弊。幻覚と幻聴に悩み、不安で体が硬直し痛くて寝転ぶこともできない、という笑えない状態、痛すぎて毎日病院に筋肉弛緩剤を打ちにいく、という末期的状況。そんななか行った休止前最後の公演は、本番前日に「もうどうしたらいいかわからないけど何かが違う」とか言って、俳優陣をどん底に突き落とす。当人は、息を吸うだけでも体が痛くて、もう朦朧としていた。そんな、破れかぶれの中、休止。休止といいながら、休止の宣言などもしないまま2015年に突入。

旗揚げ以来はじめての「次の公演が決まってない状態」に開放感が漂う。疲弊しきった心身を癒すことに、全力を傾け出す。今まで訪れなかったちょっとした平穏は、「私はなんなんだ」と自分と対話する時間をしっかりともたせてくれた。これより、修行僧のように自己対話を繰り返す時期へと入る。2015年前半は、ハウツー本を読み漁り、瞑想にばかり励み、酒を飲んではドンチャン騒ぎをした。その上で「得意なことだけをやろう」という思いにたどり着く。「誰かのために作品を生み出さなくてはいけない」というとんでもない責任感から解放された。今から思えば、なんでそんな大層な責任感を持ってしまっていたのか、と。「もう誰も、何も背負わん!私のためだけに生きて行く!」と覚悟を決めた途端に、大手芸能事務所(アミューズ)から声がかかる。他にも映像の仕事が少しだけ舞い込んできて、一気に視界が拓けて行く。「自分の状態によって、入ってくる仕事は変わって行く」なんていう精神論を唱えだす。そんなさなか、猛烈な腹痛で運ばれる。そのまま、入院。入院生活の中で、さらに自己対話が進む。入院生活で、体力は激減。まともに外を歩けないほどになる。

劇団を休止して半年、「どう生きて行くか」の問いばかりを繰り返していたが、それが更に進んでいく。それによって到達したものは、「自分の才能のなさ」であった。劇団時代に決して向き合えなかった、「私は大した才能はないらしい」ということ。ゆっくりとじっくりと考えてみて、その事実を受け入れた。「私に才能がないとして、さてどうしよう」の先を知りたくて、退院後は1人で奄美大島へ行ったり台湾へ行ったり、とにかく考えつづける。(本当に考えるのが好きですこと)。書き続けるのか?どう生きるのか?人とほぼ会わず、連絡も取らず、知らない土地で考え続けた。2015年後半、極端な私は、今度は24時間知らない人と会いまくる生活をしだす。出会い系を使い偽名を使い、とにかく知らない人に会いまくり話し続けた。己ととことん向き合った後は、「人間」を解き明かしたくなった。家に帰らず、とにかく人から人を渡り歩く生活。本名を名乗らない生活が続いた。時期を同じくして、初めて書いた映画の公開が始まる。私が書いたにもかかわらず、そこには他の人の名前がクレジットされ、利用されていたことを知る。プロデューサーの元へ駆け回り、「私が書いた」と訴えるも請け合ってもらえず、現状を変えることはできなかった。「やっぱ私才能ねーな」の思いに、「他の人にも才能あるとも思われてねーのな」が合体した。つまりどういうことか、もう、八方塞がりだと思った。自伝にも似たほどの力を入れた初めての映画作品で、利用されたということで、いろんな歯車が狂い出す。仕事上のコミュニケーションがうまく取れなくなり、本音が言えないほどになっていった。そうして次から次へと人と揉めてしまうやべー状態。そんな状態が数ヶ月続き、もう「本当に辞める時なのかもな」と思った頃、「私はまだまだ守っているものがある!」と気づく。「自分が一番晒したくないものを晒してもいないくせに、したり顔をしてる場合じゃない!」の思いから、XJAPANのツアーについて行く追っかけ日記をWEBで更新。すると、バズり、何十万かのアクセスを稼ぎ、そしてWEBの仕事がやってきて、映画の仕事もやってきた。身を晒したら、誰かが見てくれた。ああ神よ、とか思った。と、とにかく悩んで悩んで悩んでもがいて、やっと身の程をしった2015。劇団やめて1年間の話。

2016は、とにかく仕事をしまくった。絶えず営業をしガツガツとしていた。一度辞めようと思った身にもう一度降りてきた「私、文章かけるかもしれない!」の思いはあまりにも強烈で、とにかく書ける場所を探した。でもがむしゃらに探しすぎて、どう考えても私に合わない仕事ばかりを手に入れすぎてなかなかうまくいかない。ゾンビ映画を人生で一本も見たことないのにゾンビ映画の脚本なんて書き始めて、正確にいうと書けなくて、稿を重ねた先に外される、そんなことが続いた。テレビ局のプロデューサーたちの金魚の糞になり。呼ばれればホイホイ行き、媚びた企画ばかりを出し、全く採択されなかった。そんな空回りの中、WEBの仕事が増えていく。連載をもらったコラムは、一定の支持を集め、「世の中の普通の女の子のインタビュー」に魂を費やした。でも誰かと何かがしたくて、俳優業のオーディションやワークショップを渡り歩いては、悶々と過ごす。それでまた、自分に合ってない企画を書きまくって、悶々と過ごし、「何か書きたいのに書く場所がない」と悶々とした。悶々が募って、またもや入院。2回目の入院は慣れたもんで、慣れた自分にも嫌になる。

こんな入院をしまくる人生はやめねばならぬ」とまたもやお得意の自問自答ワールドに突入。そのまま、中高生とワークショップをしまくる夏に突入。中高生たちとともに作品を作るなかで、「私には類稀なワークショップの才能がある!私には伝えられることがある!」と少しずつ元気になっていく。ただ好きでやってきたつもりが、立派な「特殊技能を持つ専門家」になっていたということを知り、嬉しくて嬉しくて涙が出た。「これで私も、社会と繋がれる。社会に貢献できる技術が、私にもあるのかもしれない」嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

そしてワークショップで地方へいくのをきっかけに、東京にあまり戻らない生活をしてみる。するとどんどん元気になっていく自分を感じるのであった。と、そんな2016だった。仕事が増えるも頑張りすぎまた入院し、そこからやっとこさ自分なりの生き方のペースを探し始めた年だった。同時に、演劇の脚本のオファーがやってくる。「時期は来た」となぜか確信し、演劇に戻ることを決意する。2017年の演劇復帰に向けて、鼻息を荒くしていた、劇団休止2年目の話。

2017年は、セブ島でスタートした。もう嫌なことは全て取り除こう、と思った結果、日本へのこだわりと定住意識を捨ててみた。そこから、とにかく暇さえあればセブ島やいろんな国に行く生活がスタートする。収入は、パソコンを使ってどうにかなるようになっていた。いや、どうにかするために普通だったら受けないような仕事もとにかく受けた。もう体調不良は勘弁で、自分が健康に生きるためにはなりふり構わないと思った。異国の地で文章を書き、日本に帰って来ては演劇の作品の話し合いを進めた。数年ぶりの舞台執筆は、ただただ自由で最高だった。計らずもここ数年で修行を重ねていた「プロデューサーに褒めてもらう企画の出し方」のおかげで、ものすごく己のレベルが上がっていた。媚びた企画を出さないにしても、身についた技術は助けてくれた。休止前には決して書けなかった自分の文章に、自分でテンションが上がり続けた。舞台脚本復帰、そして中高生とのワークショップ、その後も演出家としての活動も復帰。夢のようだった。ただ同時に、私のキャパは相変わらず狭いので、頑張りすぎるとまたすぐ熱を出し、すぐ倒れた。だから自分の体との対話は、これからもずっと続くのだと思っている。自由を手に入れた2017。劇団を休んで3年目。やっと、やっと人間的な生活を手に入れた感覚だった。色んな国で好き勝手歩き、文章を書き連ねた。数年前まで、荒れきっていた生活が、遠い昔のように思える。海にかかる夕陽を見て、ボーッっとすることが、私の中に生まれてきた。

そして、2018。私は、ガレキの太鼓で劇場に戻ってくる。なぜそれがそんなにもでかいことなのか、きっと理解してもらうのは難しい。でも私には、あまりにも長いみちのりだった。そして、演劇作りは、私にはあまりにも大きい。だからこそ、「ちょっと片手間」くらいの気分で、演劇と付き合っていきたい。結局片手間なんてできないんだから、でも、「全力出すぞ!」で押していく演劇との関係は、もうおしまい。私は、もう先を見たい。生きて生きたいから、生きていくためのものづくりとの関係を、やっと見つけていきたいと思うのであった。2018、3月にガレキの太鼓は劇場に戻ってくる。そしてその後、のぞき見公演もするつもり。初めての連続ドラマも始まるし、WEBのコラムも読者が増えて来た。オリジナルの映画も今年クランクインしそうだ。それでも私は、それらに埋没することなく、セブ島やいろんな国をフラフラフラフラしていきたいと思っている。再来年くらいにはカンボジアに小学校を作りたいと思っているし、そんな、いろんなことに目移りしながら、演劇を作っていきたい。愛しすぎても見えないから、できるだけ距離をとって、一生愛せるように。そうしたら、きっと私しか作れないものが、見えてくるんでしょ?


●海老根理の叫び●

2013年、秋。「劇団員にならないか」舘の誘いを受ける。これから長く一緒に芝居やっていく場所と仲間がほしいと思っていた時期だったし、「毎回やりたいことがコロコロ変わるこの劇団なら、なんだか飽きることなく楽しめるんじゃないか?劇団員が増えて、公演規模も大きくなればさらに楽しいんじゃない?」と、軽めのノリで人生初の「劇団員」になる。 2014年。ガレキの太鼓は3本の本公演。慣れぬ劇団員としての公演で先輩もおらず、何が何だかわからず、信じられぬほど膨大な業務が裏側にあることにおののきつつ、駆け抜けるように1年間を過ごす。「なんか楽しくないな。」だんだん削れていって、活動休止前最後の公演「止まらずの国」が終わった後は、疲労とともに、とにかく終わってよかったという安堵と、もうやりたくないなって思ったのを憶えております。 2015年。はて、どうしよう。劇団入って1年で活動休止しちゃったな。「来年はまだ決められない」とは聞いてたけど、「活動休止」って俺当パンで知ったよ。何しようかな。そう思っていた矢先ありがたいことにいくつか出演オファーをいただき、夏までは3本舞台出演。でも、そのあとが続かない。なんもない。はて、どうしよう。わかっちゃいたけど、俺全然ニーズない。と、しばらく悶々としたが、「ほぼほぼ誰も知らない無名の役者にニーズなどあるわけもない」ことに気づく。それならば、とこれまでものすごく毛嫌いしていたオーディションとかWSとか、受けることにしました。ちょうどその頃友人が勧めてくれた海外戯曲を扱ったWSに参加。その時の私にとって、バッチリなWSでした。芝居作りの目的地は変わらないけど、もっと明確にたどり着くために有効な感覚があるのだなと。目から鱗でした。なんだよ、オーディションとかWSとか、めっちゃ面白いじゃん。2016年。前年から引き続き、気になったWSやオーディションを受ける。そうしたところいくつかの劇団に出演させていただくことに。さらに9月は憧れの劇場のひとつ、ザ・スズナリに。ザ・スズナリ。柄本明もよく使う、ザ・スズナリ。ミーハー全開で楽屋の畳にそっと顔をこすりつけてみたり、「今スズナリだから」と聞かれてもいないのに自分の現在地を友人に伝えてみたりしました。「今スズナリだから」事務所に書類を送ったら見に来てもらえるんじゃないかしら?と思い立ち、大・小問わず入ってみたい事務所に書類を送り、現在の事務所にお世話になることになりました。スズナリ、やっぱり素敵。 2017年。オーディションで得たお仕事で、初めてシェイクスピア作品「夏の夜の夢」に出演。自分の芝居に納得がいかず悔しい思いをする。シェイクスピアよ、キャラクターとかセリフ適当な時あるぞ!とケチをつけてみるも、結局は自分の力不足に思い至り地団駄を踏む。この年から事務所所属となり、いくつものオーディションを受けさせていただきながら全然受からず。「待ってくれ!もう一回、やらしてくれ!別のキャラがよかったらなんか指示くれよ、なんでもするから!」死亡フラグの立ってるモブキャラの気持ちでオーディション会場を後にすることもしばしば。でも3年前と比べたらすげー世界、拡がった。活動休止中も、割とリア中出来た気がする。再開するからと言って、格別な感慨はありません。粛々と、一生懸命楽しんで苦しもうと思う次第です。ただ、3年前よりも役者として、少しはアップデート出来ている、気がする。


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